Now is better than never

無糖の日々

大事なことは、君が、「知りたい」という気持ちを強く持っていること、ただそれだけということです。

雑記

一日目

 

思っていた以上に音読していても頭に内容が入ってきます。ただ読む際に「じゃア」とか「ニ三歩」等の読みづらい点はあります。今の所思うのは音読しながら強制的に頭の中で情景を想像させることが日常会話でも相手の話の核を捉えたり、次にどう話をもっていくかを予想する力は鍛えられるのではないかと思います。文三とお勢さんとのやりとりが面白いですね。

雑記

最近テーマが思いつかないので、

「1か月間1日30分早読み音読を続けた場合どのような効果が得られるか」をテーマにしてやってみたいと思います。使用題材の一冊目は二葉亭四迷の「浮雲」を使用して行いたいと思います。

予想効果

①活舌がましになる?

②回転が速くなるのか?

浮雲は~P219なので終われば次の題材を見つけたいと思います。ただ所々カタカナが入っていて読みづらい&高校の時最初の数行で挫折して以来読んでいない。

随時書いていきたいと思います。

雑記 

普段から考えている勉強するとは何だろうかについて話すと、周りの方々には、そんなことを考えている余裕があるなら行動して結果を出すようにと言われます。普通はそう言うでしょう(これは別に普通じゃないから私が凄いみたいな馬鹿馬鹿しいことを思っているんではなくて、どうしてそうなのだろうかという単なる疑問から発しています)。考えることで本来やりたいことが出来なくなってしまう可能性(時間的にも、選択肢的にも)があるからだと思います。でも私が思っているのは自分なりに「勉強する」ということについて定義をしっかりさせたい、ただそれだけなのです。その基礎を固めるためには、自分よがりになってしまっては狭い考えになってしまいがちだと孔子先生も説いています。勉強においてやる必要のあることは他人の言葉をそのまま鵜呑みにせず、自分の言葉に置き換えることだと思います。

私は暗記することは何かを達成するための一つの手段だと思います。暗記することで数学の定理を理解する。さらに自分のやり方でそれを再現し、「分かった」にいかにもっていくかではないかと個人的に考えます。だから暗記についてやり方としても結果的アプローチに対しても否定はしません。ただ、再現できなければそれは「分かった」ことにはなりませんし、記憶として定着しないでしょう。もしそうなったら何のために勉強しているのか。少しでも定着して他の知識と繋げられることができればどんなに楽しいことか。(数学ガールを読んでいるといかに学校での勉強を自分から楽しくないものにしていたかを考えさせられます。) 勉強をするに当たって別に楽しいを強制させる必要を感じるかどうかは人の選択次第ですが。

最近思ったのは、大学卒と大学院卒との考えの違いはやはり研究しているかの違いなのか(それだけではないですが)勉強に対して考え方が異なっていると思います。それらの各々の価値観も相関する違いも面白いと思いますし、勉強以外についても考えというものをさらに広げたいとそう感じました。

 

雑記

考えても考えても分からない。それは考えているのではなくて悩んでいる証拠だ。悩んでいる限り課題は解決できない。だから考えることで前に足を踏み出す。それで分からないが分かるになれば良いが、それほど沼は浅くない。深い沼はなかなか前に進めない。むしろ引きずりこまれる感覚すらある。ここでいう沼は問題の事象ではなく、対人関係そのものだ。何かしらの結果を期待されている手前、浅い沼をクリアしたところで知れている。クリアできなければ、なぜクリアできなかったかを質される。「時間を使って考えましたができませんでした。」「周りを見てみろ。A君はこんなにすごい結果を残しているのにお前は何だ? 努力が足りない。」

確かに努力が足りないのは一理ある。というかそう言われれば反論しようがない。だが果たしてそうなのか。これは個人の問題なのだ。モラリズムは規則そのものを問題とせず、自由に動ける個人を問題とする。規則は破ろうと思えば破れるのである。ちょっとはみ出した人間は避けられる。それ自体はどういうこと、状態、問題があるのか、悪いのか。個人の問題が他人にも影響する。それはよくあることだ。そもそも影響しながら生きている身だから当たり前か。

上の人がいるから言えないという自分勝手なもどかしさ。普段は意識しないのにこの期に及んでかという時にやってくる。自信があるわけでもないわけでもない、どっちつかず。質が悪い。でも感じたのはもしかしたら挽回できるかもという可能性を少し。とりあえず、やってみようの意志はまだある。

雑記

電通の過労死問題から一か月たった中で 「増補 経済学という教養」の中で稲葉先生は「モラリズム」の視野の狭さを指摘されていた。つまり、原理原則はルールとしてあるものの、個人はその原則から外れて行動できるというのが中身である。

モラリズムに従えば、行動主体の個人を問題とするし、責任はルールそのものではなく個人に帰するということだ。

モラリズムが強すぎると、原理原則のほうが問題だとする考え方が遠くなってしまうので問題である。

雑記

「やさしさ」過剰社会 著 榎本博明 を読んだ。

 

人や場合によってそれが「やさしい」と感じるのに違いがある。例えば、先生が生徒のためを思って厳しくする優しさが生徒にとっては優しさだとは思えず、自分の好きにさせてくれないと先生に対して嫌悪感を抱く。勿論、全てこうだとは毛頭いうつもりはないが、そういう例があるということだ。私自身は褒めるよりも厳しいほうが伸びる質だと自覚しているので、今は先生の優しさに共感することができる。本当の優しさは自他共に傷つけてしまうものではあるけれども、生徒にとってはそれが負けん気に繋がり、将来また挫折があったとしてもただでは起き上がらないたくましさを育むことになるだろう。一方、先生も注意したその時は生徒に嫌われたかもしれないけれど、誰かが注意しなければその子はどうなるだろうか。

また、「やさしさ」の問題として昨今の褒めて伸ばす教育とからめているのが本書である。この部分は現代の問題である打たれ弱い若者との関連性を示していて、とても興味深いので是非読んでいただきたい。

「やさしさ」過剰社会 人を傷つけてはいけないのか (PHP新書)

______________________________________________________________________

子どもの意志を尊重しすぎるのも良くない。家族の中でルールや規則を定めておくことが社会に出た時に順応できる。そのために大人は損な役回り(めんどくさいかもしれない)だけれど、その重要性について改めて考えるべきだと私は思います。

雑記

f:id:Detsch:20161211223441j:plain

ビジネス実務検定受けてきました。難易度は難しくはないと思いますが、社会人か大学生かでは大きく違うのかなと。

個人的に労働法が手ごわかったです。しかし、私的自治の原則と契約自由の原則をなぜか勘違いして間違えたのは痛い(契約自由?そんな都合のいい原則あったっけ?)

 

契約自由の原則:誰とどのような契約でかつどのような方法で契約するかは国家の干渉によらず、自由である

私的自治の原則:私人の法律関係における決定は個人の自由意志に基づくべきだ

 

この二つの原則の関係は 私的自治 ⊃ 契約自由  です。

私的自治の私人での間の決定を契約自由の原則という形で掘り下げています。

具体的には 締結自由の原則、相手方を選択する自由の原則、内容決定自由の原則、方法自由の原則 です(興味があればどうぞ)

 

 

<